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宮古の歴史に触れられる「仲宗根豊見親の墓」の魅力と見どころ

「仲宗根豊見親の墓」は、宮古島でしか見られない迫力ある石造りの大きなお墓。宮古島と沖縄本島の文化が融合した独特のかたちをしています。なんと庭付きで、さらにその庭には、石造りのウリガー(降りる井戸)まで完備されています。

このお墓を造ったのは仲宗根豊見親(なかそねとぅゆみゃ)。15世紀末から16世紀初め、宮古島を初めて統一したといわれる豪族のリーダーです。その仲宗根豊見親が生前、亡き父の霊を弔うために「仲宗根豊見親の墓」を建てました。

本記事では、仲宗根豊見親の墓の見どころやその歴史、さらには、仲宗根豊見親の墓とゆかりのあるその他の墓についても詳しくご紹介します。

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仲宗根豊見親の墓の基本情報

仲宗根豊見親の墓をご紹介する前に、“仲宗根豊見親”という人物についてまずはふれておきましょう。

仲宗根豊見親の“豊見親(とぅゆみゃ)”は、宮古の言葉で島を治めるリーダー、首長、英雄という意味。名前というわけではないようです。沖縄で生まれた子どもにつけられる童名(わらびなー)は、空広(そらびー)でした。かわいい響きですね。

仲宗根豊見親が活躍したのは、1500年、八重山で起こった「オヤケアカハチの乱」。

当時、琉球王朝の尚真王(しょうしんおう)は、宮古や八重山地域の統治を進めていました。強力な権力をもつ尚真王を前に、宮古や八重山地域の豪族たちの選択肢は『琉球王朝に服従する』か『戦いを挑むか』の2つ。

仲宗根豊見親は琉球王朝に服従することを選び、反対に、戦いを挑んだのが石垣島を拠点とする八重山のリーダー、オヤケアカハチだったというわけです。

仲宗根豊見親はオヤケアカハチの乱鎮圧の際に功績をあげ、尚真王から宮古島初となる頭職に任じられました。

今回ご紹介する仲宗根豊見親の墓は、宮古島の頭職として君臨することになった仲宗根豊見親が生前、亡き父、真誉之子豊見親(まゆのふぁとぅゆみゃ)を弔うために建てたといわれています。

仲宗根豊見親の墓とは

仲宗根豊見親の墓の特徴は、宮古島伝統のミャーカ(巨石墓)と沖縄本島で見られる沖縄本島でみられる洞窟や崖を横に掘り出した、横穴式墓をあわせた珍しいつくりになっていること。宮古島と沖縄本島との文化交流が垣間見える文化遺産といえます。

ミャーカとは、遺体を入れた石の棺を巨大な石で囲い、大きな石で蓋をしたお墓のこと。宮古島では、死者を土に埋めるのではなく、そのままま放置することによって葬る「風葬」だったことから、このような宮古島独特のお墓になったようです。

仲宗根豊見親の墓は、美しく積まれた3段の石垣で囲まれ、墓室の全面には、13段の急な石段とその一番上に大きな石柱が7基並んでいます。

内部は円形になっていて、直径6m、高さ2m。10畳ほどの広さです。厚さ46㎝の石垣が天井まで積まれ、2室に仕切られ、それぞれ棺と副葬品、風葬後に洗い清めた骨を入れる骨ガメを置く場所になっています。

石を大量に使ったこの仲宗根豊見親の墓は、宮古島随一の石造建築であり、建立以来、子孫である忠導(ちゅうどう)氏によって代々受け継がれています。

仲宗根豊見親の墓へのアクセス・駐車場・最寄り駅

仲宗根豊見親の墓は、宮古空港から車で約10分。近くには平良港、宮古島市役所があります。
駐車場はありませんが、平良港から徒歩で3分、宮古島の中心地である旧平良市街地のそばなので、歩いて散策できます。

住所/沖縄県宮古島市平良字西仲宗根3-32
見学時間/設定なし
入場料/無料
アクセス/宮古空港から車で約10分
駐車場/なし

仲宗根豊見親の墓の魅力と楽しみ方

仲宗根豊見親の墓の魅力は、宮古島伝統の巨石で作られた風葬墓地ミャーカと沖縄本島でみられる洞窟や崖を利用した横穴式墓、この2つの文化がミックスされたここでしか見られない珍しい形式だということ。沖縄本島でも見ることができないお墓です。

また、仲宗根豊見親の墓とあわせて訪れたいのが、そのすぐ近くにある、仲宗根豊見親の三男「知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓」と仲宗根豊見親の子孫である忠導氏一族の“アトンマ=側室(後妻)”たちの「アトンマ墓」。

実は、この「仲宗根豊見親の墓」「知利真良豊見親の墓」「アトンマ墓」の3つをまとめて、「豊見親(とぅゆみゃ)墓」と呼び、国指定重要有形文化財に登録されています。

仲宗根豊見親の墓の歴史

仲宗根豊見親の墓の建立年代ははっきりしていませんが、仲宗根豊見親の生前に建てられたものなので、おそらく15世紀末から16世紀初め。

仲宗根豊見親の三男、知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓は、1750年頃、知利真良豊見親の子孫であり平良の頭職をつとめた宮金氏寛富(みやがねうじかんぷう)が造ったと伝えられています。

また、忠導氏一族の側室(後妻)たちを葬るアトンマ墓は、いつごろ誰によって造られたのかははっきりとはわかっていません。一説には、1863年から1871年まで平良の頭職を務めた14世玄安によって造られたのではないかといわれています。

玄安は、頭職を務めた有力者でお金もあったでしょうし、13世玄陳とアトンマとの間の子どもでもあったことから、実母のために建てたのかもしれませんね。

宮古アトンマ墓

仲宗根豊見親の墓から少し奥に入ったところにあるアトンマ墓。宮古島の風習で、側室(後妻)は正室(本妻)と同じお墓に入ることができないため、仲宗根豊見親の子孫である忠導氏一族の側室たちのために造られました。

アトンマ墓は、岩盤と切石とを組み合わせたもの。側室たちのお墓ということで、島の頭職を務めた仲宗根豊見親の墓や知利真良豊見親の墓とは違い、華やかさはありませんが、落ち着いた佇まいです。

知利真良豊見親墓

仲宗根豊見親の墓の隣にある知利真良豊見親(ちりまらとぅゆみゃ)の墓。知利真良豊見親は、仲宗根豊見親の三男で、1500年父が名を上げたオヤケアカハチの乱に加わり、その後八重山の頭職となりました。

知利真良豊見親の墓は、仲宗根豊見親の墓同様、宮古島特有のミャーカと沖縄本島の横穴式墓を組み合わせた形式。ですが、異なる点がひとつ。それは「ツンプン」です。

ツンプンとは、門の内側にある仕切り屏のことで、外からの目隠しの役割のほか、魔よけの意味もあるそうです。

このお墓を建てたのは、知利真良豊見親の子孫である宮金氏寛富(みやがねうじかんぷう)という人。

1745年~1762年まで平良の頭職を務め、現在、119haの広さを誇り、宮古島最大の森林として知られる大野山林の造林を行い、宮古島で瓦の製造を始めた人物でもあったそう。実行力のあるリーダーだったんですね。

仲宗根豊見親の墓まとめ

仲宗根豊見親の墓からは、ビジュアル的な美しさや“ここにしかない”珍しさだけではなく、強大な勢力の琉球王朝と共存する道を選び宮古島を治めた仲宗根豊見親が築いた歴史も垣間見ることができます。

ぜひこの記事を参考にして、宮古島が誇る3つの石造建築「仲宗根豊見親の墓」「知利真良豊見親の墓」「アトンマ墓」を遠い昔に思いを馳せながら巡ってみてくださいね。

最後の最後にお土産情報をひとつ。宮古島には、誉れ高い“豊見親”の名前のついた泡盛があります。さわやかな香りと奥深くまろやかな味わいが特徴で、おいしいと評判。しかも、宮古島でしか買えない限定販売のため、宮古島のお土産にするのにぴったりです。

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