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沖縄 ひめゆり

忘れてはいけない戦争の記憶。沖縄の歴史をたどる歴史スポットのご紹介

青い海、キラキラと輝く太陽、歌と踊り好きの陽気な“ウチナーンチュ”。そんな明るいイメージの沖縄ですが、多くの住民たちが犠牲となった、日本唯一の地上戦、沖縄戦が繰り広げられた地でもあります。

1945年、終戦間際に起こった沖縄戦の犠牲者は、20万人以上といわれ、沖縄県人の4人にひとりが犠牲になりました。

今回は、沖縄のもうひとつの顔、決して忘れてはいけない戦争の記憶をたどる歴史スポットをご紹介します。沖縄の歴史を知ることで、新たな沖縄に出会えることを願って。

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永遠の平和を祈る「沖縄県平和祈念資料館」

1945年(昭和20年)太平洋戦争終盤。太平洋戦争における唯一の本土決戦ともいわれる沖縄戦がはじまり、沖縄本土にはアメリカ軍が上陸。一般人を巻き込む激しい戦場となり、20万人以上もの犠牲者をだしました。

沖縄戦の終焉の地に建つ沖縄県平和祈念資料館は、沖縄戦の歴史を伝え、沖縄が体験した悲惨な戦争を二度と繰り返さないようにと、平和への願いを世界へと発信する資料館です。

館内では、沖縄戦を行うことになった理由や沖縄戦に至るまでの背景、沖縄戦での被災状況などが、立体地図や映像・実物等で紹介されています。

沖縄戦を体験した人々の書記や証言映像も見ることもできるので、戦争の悲惨さや悲しみを肌で感じることができます。

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また、この平和祈念資料館のある平和祈念公園には、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と恒久平和を祈る「平和祈念像」などもあります。

<沖縄県平和祈念資料館>
【開館時間】9:00~17:00
【料金】入館無料 常設展示室は大人300円小人150円
【休館日】年末年始(12月29日~1月3日
【住所】沖縄県糸満市字摩文仁614-1(県営平和祈念公園)

大日本帝国海軍の司令部「旧海軍司令部壕」

太平洋戦争の激しい戦場となった豊見城市にある「旧海軍司令部壕」。1944年(昭和19年)に、大日本帝国海軍の司令部として、日本海軍設営隊(山根部隊)によって、地下20mほどのところに掘られた司令部壕です。

全長約450mの枝分かれした坑道といくつかの部屋からなり、砲撃にも耐えられるように、重要な部屋はコンクリートや漆喰で補強されています。当時は、ここに4000人の兵士が収容されていたんだそう。

多くの負傷兵がいたという医療室や兵士たちが立ったままで睡眠や休息を取っていた下士官兵員室があるほか、旧海軍司令部壕の司令官だった大田實海軍少将の部屋の壁面には、当時書かれた『大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり』という大田司令官の愛唱歌も残されています。

大田實少将はじめ6人の幹部は、米軍の猛攻により、1945年6月13日の夜半、拳銃自決を遂げました。指揮官を補佐していた幕僚の部屋には、幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のまま生々しく残っています。

旧海軍司令部壕には資料館も併設され、銃器や軍服など壕内で発掘された遺品や家族へ宛てた手紙などを見ることができます。

<旧海軍司令部壕>
【開館時間】8:30~17:30(7月~9月)8:30~17:00(10月~6月)
【料金】大人440円小人220円
【休館日】年中無休
【住所】沖縄県豊見城市字豊見城236

青春が戦争になった女子学生たちを偲ぶ「ひめゆり平和祈念資料館」

“ひめゆり”の愛称で親しまれていた沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校。 長引く戦争の影響で、少女たちが青春を謳歌するはずの学園は次第に軍事化されていきました。

1945年、米軍の沖縄上陸作戦が開始され、学園から看護要員の女子学徒隊として生徒222名と引率教師18名、計240名が戦場へ動員されました。240名が配置されたのは南風原の沖縄陸軍病院。 ありの巣のような横穴の壕に二段ベッドが置かれただけの施設でした。

1945年6月18日の夜、解散命令が出されたため女学生たちは米軍の包囲する戦場に放り出され、アメリカ軍の毒ガス弾により100余名が命を落としました。

ひめゆり平和祈念資料館では、当時の様子を再現した病院壕のジオラマ、戦場でのひめゆり学徒や負傷兵の実態が紹介されているほか、ひめゆり学徒たちの命が奪われた悲劇を米軍のフィルムと生存者の証言で伝えています。

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資料館に隣接して建つ「ひめゆりの塔」は、終戦の翌年に学徒の遺族らによって建てられたもの。この塔の前には洞窟があり、この洞窟が、ひめゆり学徒たちが毒ガス攻撃をうけ、最後を迎えた伊原第三外科壕跡です。

<ひめゆり平和祈念資料館>
【開館時間】9:00~17:30
【料金】大人310円、高校生210円、小・中学生110円(6月23日は入館料無料)
【休館日】年中無休
【住所】沖縄県糸満市字伊原671-1

“ひめゆり”だけではない、白梅学徒隊を偲ぶ「白梅の塔」

沖縄戦で戦争に巻き込まれた少女たちは、映画化され全国的に有名になったひめゆり学徒だけはありません。

県立首里高等学校の瑞泉(ずいせん)学徒61名、私立積徳高等女学校の積徳(せきとく)学徒65名など、ひめゆり学徒のほかにも多くの女学生たちが戦争に動員されました。

県立第ニ高等女学校の白梅(しらうめ)学徒55名も犠牲になった女学生たち。白梅学徒隊は戦況が悪化した1945年6月4日、軍の解散命令を受け、「白梅の塔」が建つ国吉に撤退。6月22日に米軍の猛攻撃にあい、手榴弾で自決の道を選びました。

ひめゆりの塔ほど観光地化されていないため、静かに平和への祈り、白梅学徒への追悼の意を捧げることができます。

<白梅の塔>
【住所】沖縄県糸満市国吉

伊江島の戦争遺跡「公益質屋跡」

伊江島では、1945年4月から日本軍とアメリカ軍との間で激しい戦闘が始まり、島民も含め約3500人が犠牲になりました。

激しい戦闘により伊江島はほぼ壊滅状態。唯一残ったのは、庶民向けの金融機関として建てられた鉄筋コンクリート2階建ての「公益質屋」でした。

日本軍は、伊江島で最も高い城山に陣地を作ったため、アメリカ軍は海から城山に向け、艦砲射撃を繰り返しました。海と城山の間にある公益質屋の海側の壁面には今も、おびただしい数の弾痕が生々しく残っています。

<公益質屋跡>
【住所】沖縄県国頭郡伊江村東江上75

沖縄の悲劇はここから始まった「渡具知海岸」

読谷村の「渡具知海岸」は、1945年4月1日、米軍の沖縄本島上陸地となったビーチ。今では、レストランやBBQ施設もあり、家族連れに人気の泊城公園として管理されています。

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公園内の高台には、二度と戦争が起こらないよう、平和への願いが込められた石碑が建っています。

<渡具知海岸>
【住所】沖縄県中頭郡読谷村渡具知 泊城公園

防空壕の役割をした“ガマ”

日本で唯一の地上戦の戦場となった沖縄の各地には“ガマ”と呼ばれる自然洞窟(鍾乳洞)があります。戦時中、軍の避難場所や住民たちの防空壕、戦況が激しくなると野戦病院としての役割も果たしました。

尻郡玉城村にあるアブチラガマは、全長が270mもある大きなガマで、南風原陸軍病院の分室にもなっていました。米軍による火炎放射攻撃をうけるなど多くの悲劇が起こった場所でもあります。

具志堅村新城にあるヌヌマチガマは、全長500mの大きな洞窟で、戦争末期に解散命令が下されると約800人の傷病兵が自決を強いられ、白梅部隊の女生徒たちは、行くあてもなくここから前線へと飛び出していきました。

沖縄各地にある“ガマ”を訪れ、明日の命さえも確信がもてずに過ごした当時の人々へ思いを馳せながら、平和について考えてみてはいかがでしょう。

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